「日本画」論の中で 三瀬夏之介「日本の絵」
天野 一夫 (美術評論・京都造形芸術大学芸術学部教授)
近年頭角を現してきた三瀬夏之介は、小品では工芸的な趣味性にとどまっているものの、そのディテールが集積して形成されたような大作においては、そのような安定は突き破られて運動が展開し始めるだろう。あくまでも細部の描き込みから始まり、そこからの連鎖で増殖し、細部が細部を呼びつつ、ある作品に結果する。それは最終的な全体性というものを前提にした構築ではなくむしろ生物的な造形に近い。そこでのイメージソースは多様であり、また画風も非統一であるだろう。なぐり書きのような部分からやたらと穏健な写生画風まで。あるいは個人史的なイメージをはじめ、奈良の大仏や、時には宮崎アニメのごときイメージも入り込み、はては9.11からUFO、破壊した電脳都市のような近未来的な光景まで。また、子供の絵やコピーを張り付けたり、雑誌などからの転写も紛れ込み、さらに錆が滲み、ニスが塗布されるのだ。その中で個々のバラバラのパーツじたいがアッサンブラージュされるかのように、<無関係の関係>が形成され続けることとなる。そしてその大枠として「日本の絵」という一見大時代的なタイトルが付せられたりもするのだ。しかし当然のことながら、そこにはかつてのような「大きな絵」の持つ尊大さはない。いくら大きくともそこにはあえて言えば恣意的な部分の集積からなるその絵は、混交した中での自動筆記風の自在な書記的スタンスとなっているのだ。制作過程としても何枚もの絵を描いては足していき、またギャラリーの梁に対してカットしたりとスペースへの対応で形が変わるという無頓着さである。
今年は思いの外、二つの「日本画」展(東京都現代美術館・横浜美術館)が開催されて、いまだに「日本画」に焦点があたっているようである。(ちなみに三瀬は前者に出品)。ただし、前者は現代のボーダレスの中で表現の自在さ、「古典」への距離の観測として展観されたのに対し、後者においては漱石の言う「インシグニフィカンス」(取るに足らないもの)を捨象してきた「日本画」の要素にこそ創作の可能性を示している作家たちを日本画の材質もジャンルも半ば問わず、さらに広く集めたものとなっていた。つまり後者はいささか「日本画」の正道に対して反語的なのだが、しかしその中でどのように作家を選び「日本画」に接合したかの基準は曖昧となっていた。それは顔料なのか、出自なのか、イメージなのか。半ばそうであり、半ば相違する。その中で美術館側は「日本画」との関係を演じさせていたし、また、作家も演じていた。ひとつの「日本画展」という冗談?擬態としての「日本画」はわかるが、それはひとえに作家の知性に係わってあるべきであろう。これは逆に一つの「日本画」という言葉を契機にした問題設定ではあるものの、無限拡大の危険と誤解を胚胎している。また他にも、「日本画」という言葉じたい抹消すれば、全て済むと勘違いしている、「日本画滅亡論」という聞き飽きた大言壮語する、知的怠慢さを採る論者も居るだろう。しかしながら言葉の抹消によってはこの国の近代のフレームを支えていたエートスじたいは未だに消えることは無いだろう。私はこれまで、むしろ簡単に死語化することで不可視のものとし、自らを確認する指標をなくすよりも、むしろ充分な意識をもつことで、内なる他者として、その魅惑と危険に自覚的でありつづけるべきと主張してきた(1)。しかしそれは決して実体あるものとして「日本画」を認めることを意味しない。むしろそれは「日本画」という言葉をイロニーとして、あるいは闘争面として使用することをこそ望んでいるのだ。しかしそのことに無反省なままの「日本画」論と「日本画」は、ただの内側のオリエンタリズムというべき安定の新趣味というべきものに自足する危険を持つ。文脈の接合による新しさだけがそこで強調されるとしたら、ただの消費財としては有りだろうが・・・。では現代の作家はかつてのような「日本画」という界面上での摩擦も闘争劇も今無いとしたら、どのような再設定を自らに課すのだろうか。はたしてそこに仮想面としての「日本画」があったとしたら、そこにはある距離感の下での覚めた眼差しが伴う必要があろう。三瀬の場合の「日本の絵」という「日本画」とのズレはその一つの設定なのだろう。そこでの思い入れは、様々なるものと接合した場としての個であり、かつてのような重い象徴物ではない。この断片の集積でしか作れない明るい大画面には一つの諦観も孕まれているかも知れないのだ。三瀬はこのかつての重圧を抜けたかのようなボーダレスな非歴史的な渦中で、それでもどこか落ちつかないのだ。その確認せざるをえない落ち着きの無さこそが、この若い作家の可能性ではあるまいか。
(1)『「日本画」内と外のあいだで』(ブリュッケ、2004刊)参照。
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