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日本の現代アートの論点
2009年12月20日 日曜日

以下、論考を書いてみました。

今日、宗教の対象化と共に、芸術も対象化せざるを得なくなったのは周知の事実である。デザインと芸術の境 界線が必要なかった未分化の日本の美意識に、西洋文明の影響にともない、絵画や彫刻といった自律的な対象物に向かう、芸術家の概念が生み出されることに なった。それは、美術大学や音楽大学の存在の歴史とその学部の在り方にも顕著に現れ、芸術家を育てる教育プログラムが表立って形成されている。

しかし、西洋システムの輸入にともなう矛盾点として、芸術を文脈的に構造化した西洋の歴史と比較して、日本のそれは相変わらず芸術を文脈化することができ ない。芸術家という職業としてもそれなりの地位が約束されるわけでもない。日本における絵画や彫刻の重要性も誰しもが望んでいるわけでもなければ、語るも のも多くない。

それは、日本が積み重ねて来た芸能の知には、文脈化することではなく、文脈を無効とするような力が働いているからである と思われる。庭の文化、尺八の文化、踊りの文化がそれを証明する。もし、日本に「現代アート」を対象化するなら、それは知的構造としてではなく、知的解体 構造として位置づけることかもしれない。その中では、絵画や彫刻という自律化と職業化の問題とは真逆な、事物への新たな介入方法(ブリコラージュ)にみら れるような非職業的な可能性にあるのではないか?

今日の専門分化された職業の可能性とは真逆な、非言語的コードの作品群が、「現代アー ト」という文脈とは別種のアートとして注目すべきものとして、オルタナティヴアートの可能性がある。例えば音楽集団の「芸能山城組」、ダンサーの森山開次 は本来職業とは云いにくい活動の源泉がある。また美術の側では、河口龍夫という事物への新たな組み替えを示す視覚性には、本来の絵画や彫刻を職業とする者 とは別種のベクトルがある。彼らに共通しているのは、意識的、無意識的とに関わらず、芸術システムが大きく望む歴史主義を見事に解体している点である。つ まりそこには、言語コードで読み解く文脈(経験的、単線的歴史観)がことごとく通じないのである。音の情報であれ、物の物質であれ、身体の運動であれ、そ こに息づいているのは、暗黙知と呼べるような、非言語的な知が息づいているようなのだ。

それは平面でも立体でもない、多次元を体得する ような時空が形成されているように僕には見える。すなわち、西洋伝来の芸術基準を覆す、知的解体構造としての高次元的表出をともなう彼らのようなスペシャ リストの現れが、今日の日本の芸能文化の可能性に直結するのではないか?

それを日本の「現代アート」の可能性として内発的な非文脈的装置として語っていくのか?あるいは今日のように世界の動向という外発性に身を委ねるしかない、単なるトレンドの羅列に終始する日本の「現代アート」に留まるかは、大きく議論が待たれるところである。

清岡正彦