「と」の地平― 清岡正彦のために

 清岡正彦はこれまで既存の物から出発しながら、そこではその全てを劇的に変容させるのではなく、も
ともとの物の持つある側面を活用しながらも、穏やかに編成してきた。いわばかつての物から、今まさに
他の物にひそやかに変容しつつある中途の、宙吊り状態としての有り様と言ってもいい。具体的素材とし
ては、かつてのように排水溝の蓋であったり、飛行機のモデルであったり、今回のように浮き、食品サンプ
ルや卓球ラケットや家具のような、いたって日常のものであるだろう。しかしそれはそのものとして終わ
らない。写真もそうだ。一見するなら自然な日常の片隅を撮ったものと受け取れるかも知れない。しかし
何かが違う。その小さな ? は、多少気に留めて見るならば滲み出てくるものだ。だがここでもオブジ
ェのような特殊な物に成りおおすわけでもないのだ。この中間項を生きる作品は我々に単純な感懐へと導
かない。
 いまだ新作を実見することはできないが、今回は七つほどの台座の上に物を置き、また周囲に写真を展
示する構想と聞く。しかしながらそれは一つ一つの彫刻と写真として見るよりは、個々の作品を通底する
ようなものが探られていることが重要である。むろん、様々の展観の空間においては独自の全体性が求め
られているものだ。しかし清岡の作品においては、その個々の物どうしの関連性こそがむしろ作品の主体
とも言っていいのではあるまいか。xとxという作品どうしのあいだである「と」としての作品。それは
立体的な物にも写真という他空間にも入り込み流通し始める我々の不可視のゆるやかなイメージ連鎖の中
で、画廊空間の床、壁、そして台座、額装という様々の界面が意識され、その相関としての全体が現れて
くる。その新たな「風景」を作ることは、他方、絵画の抽象性や彫刻の実体を相対化することでもあるだろう。
 日常に開きつつ、なおかつそこに埋没することでもない態度は当然現代的な意識の中での営為なのだが、
日常空間にゆるやかな個々の物どうしを関係づけることは、<しつらえ>というこの国の古い言葉を想起
する、むしろ西洋近代とは真逆の優れて非自立的で、関係性にこそ生きることだろう。その空間の中でこ
そ我々は物やイメージとコミュニケーションしてゆくのだ。しかしこの展覧会という場の後に物たちは分
離して異なる発言を始めるだろう。そのような作品の流通過程も含めて作者は会場で思案するはずである。
それは個人的な問題ではない。我々の記憶にかかわる奥行きだろう。


                       天野 一夫(美術評論家・京都造形芸術大学芸術学部教授)